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宗教の種類と宗教の起源、信仰心を考えてみる

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ぼくは高校生の頃から宗教って人にとってどんなものなんだろうって考えてました

ぼくは「宗教を信仰する」っていう感覚がわからなかった

でも最近少しだけわかってきたから宗教を信仰する感覚がわからない人と共有できれば嬉しいです

 

宗教の生まれる瞬間

まず現代において宗教の起源は大きく二つに分かれると言われています

それが 創唱宗教自然宗教 です

創唱宗教

ある特定の一人の呼びかけにより生まれる宗教です

例えば仏教、キリスト教、イスラム教などがそう

 

自然宗教

名前の通り自然に生まれる宗教です

例えば自然崇拝、呪術や人間の精神に基づく宗教です

 

共同体があれば宗教がある

ぼくはこう思います、宗教とは共同体の中では必然的に生まれるものなのではないか

そう思うわけです

 

想像してみてください

人間の集まりの共同体が出来ると人々の統制、物資の調整などを管理するために共同体の中で中心人物が誕生しますよね?

それで、その中心人物が今でいう政府のような役割を担います

でもその中心人物でもどうにもできないことが起きたとします

すると人は何かのせいにして安心感を得ようとします

それが悪魔だとか、罰といったことでしょう

さらにその悪魔や罰を受けないようにするために自然崇拝や呪術などが生まれます

でもそれでもどうにもならない場合架空の何かを使ってこの文言を唱えれば安心だといってみんなで唱えます

 

つまり共同体の中では中心人物、規律、宗教は必然的に生まれるものなのだと思ったわけです

その中で宗教は人の心の依処になっていって、人々の精神の基盤となっていったんだろうなって

 

信仰心ってなんだろう

ぼくの場合はそもそも信仰しているって感覚が全然わかりませんでした

 

みなさんは信仰心ってなんだと思います?

ひたすら教えに忠実に従っていくこと?

またはただただなんの疑問も持たずに信仰心を持つこと?

 

ぼくはどちらも違うと思います

信仰心というのはひたすら教えに抗うことだと思います

ぼくがなぜ一見信仰心とは程遠いと思われることを信仰心だというのか

 

それは抗うことで教えの本当の意味、真意というのが見えてくると思うからです

ぼくは真宗大谷派、つまり親鸞聖人の宗派の僧侶です

真宗大谷派の教えというのは簡単にいうと念仏したらすくわれるよっていうのなんですけど

どう考えてもそんなことあるはずがないって長い間思ってたわけなんですよね 

っていうか救われるっていう言葉事態にすごく違和感を感じてて、意味わからんって思ってたんですよ

んでそのことを自分でも考えて、同じ境遇の人たちの話を聞いていく上で少しずつ謎が解けていきました

 

そしたら最近になってきて少しわかってきて、南無阿弥陀仏って言葉は 過去・現在・未来の声を聞く ってことなんじゃないかと思い始めたんです

(※このことについてはもうすこし詳しく他の記事で書いていこうと思います)

 

でも声を聞くってどういうことだろうって考えた時に

ぼくの中の結論としては自分がもしその人の立場になったらどう感じてどう考えるかっていうのを考えるってことだなって

現代風にいうと思いやりっていうところでしょうか?

 

つまり南無阿弥陀仏はおもいやりなんですよね

計り知れないほど深くて儚い命に対しておもいやりを持って接する

それが南無阿弥陀仏、念仏の意味だって最近になって思ったんです

 

でもここでも理解できない問題があって、そんな思いやりだとかどんな人生でも認めてあげるとか肯定してあげるっていうと

その人の人生がいかにもダメなものだと決定してるようなものなので、ここはどうしたらいいんだろうって思うわけなんですけど

まあこの点はこれからも考え倒したいと思います

 

そうして宗教に対して疑問を持ちまくるといつのまにか自分の中ですごく納得できる部分だとかが出てきて

この人はなんてすごいことを言っているんだろうとかすごく共感出来るとか尊敬に近い感情が出てきます

 

例を出してみるとすると

身近な人が言っていた言葉が胸に刺さるような感覚

それが信仰心っていう言葉の感覚なのかなーって思います

まだわからないですけどね 笑

 

ではありがとうございました